成熟社会に生きる我々は、常にスケジュールによって管理され、忙しさにまみれて暮らしている。会社は週休たった2日。小中高校も1日か2日。ここまで切り詰められた休暇しか手に入らない中、忙しさを感じない人はいないだろう。
そんな中、我々は忙しさの中にヒマを見出したのだ。その自己組織化から生まれた“発明”は、実は自らが自らのアタマを保護するためのシステムなのではないだろうか。
では、その保護システムとはどういうものなのか―――。
たとえば、同じ時間に暮らしていても、それが長く感じる・短く感じることは、その場合・感情によって変わることは、多くの人が納得できるところだろう。なにか辛いこと、嫌なことに煩わされている時間、なおさら逃げられない場合、また、特にその原因が自分のせいであった場合、1分が1時間に思える気がしないだろうか。
試験前などは切迫したプレッシャー下にいるにもかかわらず、そんな時に限ってやることがない!と思うことはないだろうか?本当は時間を惜しんでまで勉強しなければいけない。だが、そういう時に限って別の実にくだらないことに興味が向かい始めるのは僕だけだろうか。いや、きっとみんなそういう経験はあるはずだ。テスト前にやるゲーム・漫画ドハマリ。簡単に言ってしまえば、これが「忙しさの中に内在する暇という感覚への渇望」なのだ。
なぜ忙しさと暇さが(感覚的に)同時にやってくるのか。仮説であるが、忙しいときには、集中している時間と散漫になっている時間が別の時間軸上に存在し、後者がより顕著に意識に顕在化するのだろう。その複数の時間軸の間に現実感と実感のズレが生じるのだ。
人は、絶対的感覚より相対的な感覚を重視することが多いようだ。たとえば、手を冷水につけておいて、普通の蛇口から出る水を触れば暖かく感じる。これと同じことが時間感覚と忙しさ感覚との間にも起こるのだろうと考えれば分かりやすかろう。つまり、人は時の流れの概念の中に、自分独自のオルタナティブな概念を持ち得る。そのオルタナティブな時間間隔概念を“単位時間中の人生濃度圧縮率”と呼ぶことにしよう。
ある物事に熱中している時、時間はあっという間に過ぎ去っていくように感じる。それは、熱中している(時計が刻む)時間を単位時間の人生濃度圧縮率(熱中>非熱中)で圧縮するからではなかろうか。
主題である、「忙しさの中に内在する暇という感覚」について簡単にまとめてみよう。
忙しいとき=単位時間の人生濃度圧縮率(P0)が高い時(P+状況によって可変する人生濃度圧縮率)。そして、ヒマなとき=単位時間の人生濃度圧縮率(P0)が低いとき(P-状況によって可変する人生濃度圧縮率)である。
そして、その人生濃度圧縮率(P)が限りなく1へ移行していく(limP0→1)、すなわち、忙しさ(B)がヒマさ(T)方向の基準値(S0)に限りなく近づくと、人生濃度圧縮率(P)が遅れてやってきてしまい、高いままになってしまう(補足:暇さをあらわす基準値(S0)は、人の感覚によって違い、同じ基準は二人としてあり得ない)。すると不変のはずの二本の時間軸(t1:忙しい時間軸)(t2:暇の時間軸)を想定した場合、その(t1)上の(P)と(t2)上の(P)にズレが生じる。すると、本来不変であるはずの基準値(S0)が、それ以上の値(S1)になりえる。その基準値(S0)と超基準値(S')との差が、時計の刻む時間と、自分で感じる時間の差なのだ。
図解
(t1) T←-------------(S0)-----------→B
(t2) T←------------------(S')----------→B
---------------------+----+
(S')-(S0)は、(t2)*(P)-(t1)と同じであることをあらわす
