鶴見済が書いた、ミリオンセラー作品『完全自殺マニュアル』。その自殺マニュアル発刊から10年、そして僕が彼の本を手にしてから4年が経った。しかし、いままでその著書は、倫理・道徳的な面からの批判しかなされてこなかった。そろそろ、違った読み方をしても許される時期に来てはいないか。もう、『自殺はいけない!』だとか『クスリ=人間失格』なんてとうに辟易、聞き飽きた――。
彼は“いつでも死ねる安心感”という意味あいで、「自殺」というタブーの是非に疑問を叩きつけた。事実、その疑問は16歳の僕にとって新鮮だった。もっと言えば、それはまさしく、必死でしがみついた命綱だった。僕は当時、反復する毎日に辟易していて――それはポーズだったのかもしれないが――彼の本を噛み付くように読んでいた。確かに、鶴見の提唱する“非常口の作り方”は生きることをラクにしてくれた。
のちに、鶴見が『人格改造マニュアル』で、エクスタシーというドラッグを紹介しているのを見る。そのクスリは、誰でも飲めばたちまち幸せになれるものだという。さらに『檻の中のダンス』にはこういうふうにある。
「エクスタシーという物質ができたこと、すなわち幸せの化学合成が可能になったことは、人間にとっての重大事件だ」
僕はこれに目を奪われてしまった。たちまちクスリで幸せが手に入るなら、なんだ、こんな苦労を自分から買わなくてもいいじゃないか――。
でも、今になってどうしてもこれに首を傾げる。エクスタシーが作りだすのは、限られた時間(クスリが効いている間)の“至福”感でしかないのではないか。踊る社会学者こと上野俊哉は、「僕らの歳になると、未来の幸せには目が向かずに目先の幸せに行ってしまう」と言った。それを聞いて、今度はエクスタシーというクスリが、まるで末期がん患者に投与するモルヒネのように思えてきた。調べるに、エクスタシーという薬物は脳に作用し、多幸感をもたらすとされている。だが、その多幸感は「単発」の幸せでしかないようなのである。
僕が描く“幸せ”は、辞書に載っている「幸せ」の意味とは全く違うものだということを先に言わねばなるまい。僕は、当人にとっては不幸のどん底にあるとしても、なんであれ生きていて、「死ぬほどに自分を追い込むこと」ができる、ということこそが幸せなのだと思う。自分へ100%意識が向いている状態になるまで自分を追い詰めているときこそ、幸せなのだ。自殺できるまでのプロセスで自分と真正面に向かい合ってさえいれば、その期間は「連続的な充足」を含んでいて、結果死んでしまったとしても、幸せであると断言する。濃密な時間こそが幸せなのだ。その連続的な充足を得るために、うっすら気づくほどの経験という足跡を残しておこうではないか。毎日つけた日記を5年後に見る幸せ、っていうのはどうだ?幸せというものの出発点は単発の充足感=「点」でも、バックグラウンドで繋がっていて、のちに連鎖反応を起こす。日記帳はまるで「幸せ」の不発弾のように、爆発的に自分の下に埋められている。そして処理班はもちろん、他にはいない、あなたなのだ。
鶴見は『人格改造マニュアル』で幸せになれるツールとしてドラッグを引き合いに出した。たまにイベント的な幸せにふけり、ダラダラと死ぬまで生きてもいいじゃないかと言いながら。実は僕は、全ての本が発刊されてから読みはじめたのもあって、『檻の中のダンス』を、直後に読んでいたのだ。そこで、よしもとよしとも“55%の前向き”(青い車)という漫画評を読みながら、気づいた。
『“気持ち悪い前向き”はそこにドーンと“前向き100%”でくる。それは不自然で嘘くさく、当然気持ち悪い』
これは実に的確な分析であると言えよう。しかし、エクスタシーで得られる幸せというのは、鶴見のいう、まさにその“当然気持ち悪い”もの、そのものではないか。
もちろん、僕は規制されてるから云々などという短絡思考で“気持ち悪い”なんて言うつもりはさらさらない。なぜなら、エクスタシーによってもたらされる至福感が、自分を「幸せ」につなげる可能性を持っていることは考えられるからだ。でも、彼らの言ってきたことにはまだ足りない部分があると感じないだろうか。その延長こそ「僕ら」の命題だったんだ。
自殺マニュアル発刊から10年。僕らはもう非常口作りに飽きてしまった。日常/非日常という概念をいくら自分でアタマの中にねじ込んでも、まったく同じ世界でしかないことに気づいた。だから非常口はもういらない。鶴見は『檻の中のダンス』でアタマからカラダへ意識の転向を叫び、優越感を捨てることに拘っている。でも、それら全て十把一絡げ、一緒のものでいいじゃないか。優越感も劣等感も踊る快感でもなんでも、自分の持った貴重な体験の中の一つなのだから。人が裸一貫で「知ることを知る」ことに徹底的に向き合うことこそ、人間にとって一番不安で、しかも一番幸せで、興奮することなのではないか。
こう理屈をこねたところで明日のことはもちろん分からない。だが鶴見と今の僕らは違う。彼らの言う幸せな未来は、実は全く未来にない。彼らの未来は、過去の「点」経験を無理やり未来に延長しただけのものなのだから。悲しくも、彼らの「幸せ」は過去の体験への依存でしかない。
最後に。僕はなにも、鶴見が出てくる以前の旧来の価値観に立ち返ろうと言っているのではない。今や僕らの価値観構築法は、サンプリング(抽出)である。古いものも新しいものも同列に扱い、より良いものを探索するスキルを身に付けた。幸せは化学合成できない。でも、自分の中で合成・醸造することならできる。①旧来からの価値観、②鶴見の提唱=既に合成された幸せの獲得、③そして次のステップ、すべての体験からの検索とリコンストラクションを辿って、ようやく「僕ら」はここに来た。
今、通過点を越えた僕らは、ただ現実を見据えようとしている。「幸せ」を作り出すものは何一つないけど、どこにでも転がってる。ただ、どんなものもすべからく、幸せのきっかけを孕んでいることだけは、本当のこととして書き添えておく。朝令暮改を懼れるな!もう、間違えてきたものは間違えたと開き直ろう。
――――「何も始まらなかった一日の終わりに」(松本太洋)
生きにくい。でも、ほのかな期待と苛立ちを込めて、僕は行く。
